お寺さんの町は、天満の歴史の語りべ。
天満の地に寺町が形成されて約四百年。与力・同心と 共に大阪の北部の防衛を意識して配置された町づくりだという。また、寺院それぞれに開山の歴史があり、千年以上の寺歴を残す名刹もある。それはそれとして庶民の信仰や娯楽にも欠かせない関わりを持ち、天満に縁深い学者・文人墨客の墓も多い。信仰も娯楽も宗派をこえて
「日がな一日、門前に人の絶えることがなかった。観音像を撫でながら無病息災を祈る人々のざわめきは寺の中まで響き、普段の静寂が嘘のようだった。若い僧が二人、門前に置いた餅箱に溜まった米を升で布袋に移し脇に抱える様にして庫裏に持ち入った。この米が翌月の大師の日までの食扶ちになる。お詣りの人々は懐の袋から米粒を手の平に少し取り出すと、布施として我先に餅箱に入れるのである。空になった餅箱にまた米が溜まりはじめた。」 御年配のご住職達が懐かしそうに往時の賑わいを語られるお大師さん詣りは宗派を超えた信仰と娯楽だったようだ。大塩焼けや大戦で歴史的な資料の大半を焼失したが寺は蘇った。寺町の名は地図から消えたが寺々は健在である。成正寺
日秀上人開創。寺地と妙見大菩薩像を秀吉から寄進された。大塩家の先祖は家康に仕えた大塩波右衛門。平八郎は14歳で奉行所に勤め東町奉行の知遇を得て才能を発揮。正義感が強く、自邸を学問所、洗心洞とし子弟の教育に当る。天保の大飢饉時米価が高騰。官財癒着の政治を批判し乱を起す。大塩焼けで家を焼かれたにもかかわらず市民の英雄と崇拝された。
正善寺
日相上人開創。能勢候の菩提寺。候は郷里の能勢妙見から同体の本尊を観請し邸内に妙見堂を設けた。邸は夫婦池の埋立跡に構築された。夫婦池は上田秋成「雨月物語」の題材。九品寺
伝、行基開創後、浄土宗に改宗。寺内に五井持軒の墓がある。大阪生まれの儒学者。伊藤仁斎・貝原益軒と親交があった。専念寺
滴翠和尚創建。江戸期に3度焼失。秀忠23回忌に徳川家の御霊屋を建立。芭蕉研究の俳人、岸田素屋、語源研究の国学者、高橋残夢の墓所。龍海寺
江戸末期の蘭学者・医者の緒方洪庵が開いた適塾は、門下から福沢諭吉・大村益次郎・佐野常民・久坂玄瑞などの逸材を輩出したことで有名だが、その緒方家の菩提寺。恩師洪庵の傍らに埋めてほしいという遺志による大村益次郎の足塚がある。
宝珠寺
松平忠明により寺町の地に移されるまでは源八OAP附近の大川添いにあったという。清和天皇により、菅原道真が天満郷を寺領に下賜されたため菅原山天満宮寺ともいう。海外で有名な根付師懐玉斎、浄瑠璃の竹本摂津太夫などの墓があり、境内の小堂に空海の秘法による油掛大黒がある。
天徳寺
儒学者、篠崎小竹と養父三島の墓がある。小竹は学問所「梅花社」の塾長を務め門人千五百人を育成。
「天下の台所」大坂の中心地は、天満だった。
江戸時代の大坂。それは、アメリカより240年も先駆けて始めた先物取引市場であり、全国の物産が7割も集まった資本主義経済都市でした。その中心となったのが天満や堂島。その繁栄の背景にあるのは地の利と人の和、堀や川を使った水運と町人の商人(あきんど)道でした。自分で道を切り開く大坂だましい
大阪の人は権力に対してビビりません。「なんぼのもんや」「おれらが雇うてんねん」的な発想です。これは、全国的に見て大阪人だけの感覚です。こわいですね。 この反骨魂は、近世に生まれました。当時大阪の人口が最高で約40万人。それに比べて武士の数は500人をこえる程度。これでは、武士(役人)の姿を見たこともないし、上からガツンとやられたことがない、という人の方が多かったでしょう。「恐いもの知らず」の強さです。 役人が少ないから権力に頼らない。そこで町人から選ばれた惣年寄(そうどしより)が行政をまかされました。ちなみに町人とは、町に家を持って住んでいる人のこと。借家に住んでいる人は町人とはいいません。 このような反骨精神は、町を愛する心につながり、自分らの町は自分らでつくるという気概を生み、今に受け継がれています。大川に育まれた天満青物市場
昔から文明の発達した国や町には、必ず大きな川がありました。大阪の場合は文字どおり「大川」のおかげで栄えました。その大川沿いに出来たのが天満青物市場。天神橋北詰から東の旧竜田町までの約300m。現在の南天満公園あたり。承応2年(1653)7月30日、この日から「天下の台所」への道が始まったのです。天神橋北詰より西の菅原町には乾物問屋街が出来ました。
道路が未発達のこの時代、交通は、ほとんどが船。大川を利用して近江、山城、紀伊、和泉、河内、摂津などからとりたての生鮮食品が早朝から運び込まれました。人と物があふれ、ものすごい熱気。もちろん年中無休です。
芭蕉も驚いた天満の活気
寛文6年(1672)、河村瑞賢(ずいけん)が西回り航路を開き、北前船がやがて北海道から昆布を天満に運び込むようになり、昆布のだしを使った「大阪の味」が生まれるようになりました。
問屋は、幕府から特権を与えられ、最盛期には全国の物産の7割が天満を核として集散し、「浪華第一の市場なり」といわれたほどです。
天満青物市場に船で青物などを卸に来た近畿一円の人たちは、その足で十丁目筋(現在の天神橋筋商店街に行き、買い物するのを楽しみにしていたようです。
天満青物市場の川向こうは「八軒家」といわれ、そこから三十石船が頻繁に発着していました。
元禄元年(1688)4月13日、松尾芭蕉は、八軒家近くの友人安川一笑の家を訪れました。天満青物市場にも行ってみたようですが、あまりにもせわしなく、騒々しいので、いやになったと手紙に書いています。芭蕉が44歳のころです。この年、井原西鶴が「日本永代蔵」を刊行し、「堂島穀物売買所」が出来ました。
世界初めての高度な金融テクノロジーが誕生
大川から続く堂島沿いには蔵屋敷が多いときで135軒あり、天満にあったのが「鍋島藩蔵屋敷」。跡地が現在の大阪高等裁判所。東西135m、南北150mで一番の大きさ。米を積んだ川船が屋敷の中にそのまま入れる構造になっていました。 天満の商人たちは、大坂の庶民を相手に温もりある商いをしていましたが、北浜や堂島の商人たちは、藩(武士)を相手に商いをし、巨万の富を得ました。しかし、淀屋の場合、全国の大名たちに今の金で約1336億円の貸しがあり、結局踏み倒されています。しかし、大坂商人はしたたかです。堂島を拠点に商いを続けます。 幕府と何度も交渉を繰り返した結果、享保16年(1731)、公認の米市場を開設しました。堂島米市場の始まりです。ここで驚くのは、現物取引だけでなく、帳面上の売買や米切手による先物取引を世界で最も早く誕生させたことです。権力を恐れず、自由な発想を持った大坂人だからこそ出来たのでしょう。しかし、あまりに行きすぎたので、幕府は、たびたび禁止令を出しています。「たびたび」というのは、「やめろ」といわれてもやめなかったことを示しています。根性がありますね。特にかっこいいのは、儲けた金を橋や建物、あるいは文化、教育などに使ったことです。今でいう民活によるまちづくり、人づくりです。大阪ならではの伝統です。おいしい天満の酒
江戸時代、大阪天満宮あたりには良質の水脈があり、その湧水を利用したおいしい「天満酒」が盛んに造られていました。造り酒屋が当時135軒もあったといわれ、樽屋町という地名にその名残があります。 天満・天神のまちは「天満の天神さん」と大川によって繁栄してきました。そしてそれを支え、守ってきたのは商人たちです。例えば、天神祭りのために講の人々が1年かけて貯金する。この気持ちも大阪に172橋も造った商人たちと同じ気持ちです。「まちや人のために役立ちたい」。それが、今も昔も大阪商人の心意気ではないでしょうか。まちが人をつくり、ひとが時代をつくった。
江戸時代から大坂人は、二つの顔を持っていました。一つは商人の顔。もう一つは、文化人の顔です。学者、小説家、劇作家、台本作家、あるいは、塾などを支援する顔などです。そんな大坂人をご紹介。井原西鶴 SAIKAKU IHARA
井原西鶴は、天満の天神さんにたびたび通っていました。俳諧の師匠西山宗因(そういん)が天神さんの中にある連歌所にいたからです。寛文12年(1672)西鶴が30歳の頃です。天神さんのすぐ南にある天満青物市場は、熱気にあふれ、うるさいくらい。しかし、西鶴は憂鬱でした。数え15の時から俳諧をやっているが、だれも宗匠としてみとめてくれないからです。西鶴より2歳下の芭蕉はこの年、「貝おほひ」を刊行し、「俳諧史上、驚嘆される作品」と評判。西鶴はあせりに焦っていました。
当時宗因一門は、談林派とか大坂風、宗因流と呼ばれ、大いに受けていました。今までの貞門俳諧のように古い形にとらわれず、自由で、軽やかで、おもしろかったからです。大坂人の気質にあっていたといえるでしょう。
西鶴は、弟子入り前すでに軽やかな俳諧を表していたので、たちまち宗因の心をつかみました。
西鶴は、商人の息子。商売をいやがって文学の道に進みましたが、心は大坂商人。才覚を働かせて、人より先に、おもろいことをする。「目立って、なんぼ」の世界を実行した人です。談林派の俳諧は、江戸でも評判になりましたが、貞門派からは、軽く見られました。しかし、西鶴らは「おもろいことが、何で悪いねん」と居直り、逆に江戸の人間をからかったくらいです。
西鶴42歳の時、1日1度に23500句をつくるという歴史に残る大記録をつくりましたが、数にとらわれる自分に嫌気がさし、2年後に名作「好色五人女」や「好色一代女」を書きました。そこには「大衆は色と金が好きだ」と見抜いた西鶴のすごみがあります。本音で生きる大坂人の気質。西鶴を知ると、今の大阪人が見えてきます。
近松門左衛門 CHIKAMATSU MONZAEMON
曽根崎の露(つゆ)天神社で若い男女が心中。頃は元禄16年(1703)、旧暦は4月7日の明け方。西鶴が亡くなって10年の歳月がたっていました。
たまたま京都から来ていた近松門左衛門は、事件をもとに、浄瑠璃「曽根崎心中」を書き、1ヶ月後、道頓堀の竹本座で開演、ものすごい評判を生みました。これに気をよくした門左衛門は、天満に住んで、心中ものを書き続けたのです。既に50歳になっていました。
彼は、越前(福井)の武士の息子。生きることに情熱を燃やした西鶴と、生を否定し、来世を信じた門左衛門とは対照的です。川端康成も天満で生まれましたが、どこか門左衛門に似て、自分の美学を追求しています。言い方を変えれば、大阪人にしては、品がいいのです。ひょっとしたら天満は、スケールが大きくて、行儀のいい人を生んだり、育てるまちなんでしょうか。